こわいほどながい経歴:
地元福岡県みやま市瀬高町。名物は大力うどん。
小中高は、とにかくずっとしゃべってた。
暇なときは、作詞作曲にはまってた。
学校では、応援団長とか生徒会とかやっちゃう系。
大学いくかジャマイカいくか。推薦で受かれば福岡大学。落ちたらジャマイカ。
面接でのしゃべりがよほどよかったのだろう。
福岡大学法律学部へ。
ほぼ福岡大学には行かない生活。だけど、別の大学には出席してた。
友達のノートを丸暗記でストレート卒業。
記憶力と集中力だけはとっておきの自慢さ。
就職ってなって、何一つ迷わず営業の道をチョイス。
自分を全面にだして、沢山の人に自分を知ってもらいながらお金が稼げるなんて。
すごい職業だ。
販売するサービスと価格と内容は決まってる。
あとは、だれが営業するかの差。
「自分」の価値をいかに伝えるか。
やはり天職だった。楽しすぎた。
そこからは芸人になった。
「芸人さんですか?」って死ぬほど言われてきて、
これはやってた方がネタになると思い本気でやった。
笑いの養成学校にいってた頃、おもしろくない先生に「わかってるよな。今のネタはおもしろくない」と言われへこんだ。
観客にはウケてるのに先生にウケない。
やり場のない気持ちをを支えてくれたのは尾崎豊の「I LOVE YOU」だった。
それでも180組ぐらいの中から所属を勝ち取ったが、速攻でコンビ解散であっけない感じで芸人人生に幕を下ろすことになる。
人生一番のダメージ。挫折。東京のど真ん中で泣いた。(調布市)
人を喜ばせる、楽しませる精神は芸人という選択肢以外では、ビジネスだと思った。
むしろ、芸人よりもビジネスの方が世界中に影響を与えられる。
そこからビジネスをやるために色んな社会経験がはじまる。
伝説の人参詰めの仕事。
お笑いノンアルコールBAR。
シフォンケーキのナイトカフェ。
親父のつくったハンバーグでハンバーガー屋。
休みの日は古着を集めてフリマでどれだけ稼げるか挑戦。
わくわくすること、すべて挑戦してみた。
世の中にはどんな稼ぎ方があるのか。
ビジネスをやる上で非常に興味深かった。
本当に毎日自由だった。
自分でなにかをやって稼ぐ大変さも知ったし、楽しさも知った。
この辺から、「お金」の価値は変わり始めた。
途中、何がしたかったのか、暇さえあればハローワークへ行き誰より大きな声で夢を熱く語った。
その姿をみた友達はこう言った。
ハローワークは夢語るところじゃなくて仕事探すところだからねって。
そりゃそーだ。
そんな自由な自分をいつも応援してくれる母への感謝の気持ちが溢れてた。
そこで、母の店のホームページをつくろうと決意。
偶然にも、お金もなくなってきてた。
職業訓練は通いながらお金をいただけると、
ハローワークで求職中の59歳ぐらいのおじさんがナイスなことを教えてくれた。
そこで、イラストレーターとフォトショップを3ヵ月習った。
いよいよビジネスへのわくわくの鼓動が動き出す。
一旦、天職にもどって会社づくり、組織というものを学びにいった。
そして、その仕事の帰りだったかな・・後ろからだれかに名前を呼ばれた。
アメリカだった。
そしてニューヨークへ。
自分の感覚にビリビリクラッシュメントが起きた。
日本に戻ってメトロポリタンクロスボトルの開発がはじまった。
なんでこんなに長い経歴を書いたかと言いますと、
今まで、わくわくしたことに素直に興味を示し、
全部チャレンジしてきた。そして目の前に起こることを全て楽しんだ。
すべてがいま繋がってる。
しゃべりもお笑いも人参詰めもシフォンケーキも営業も職業訓練も・・・
ぜんぶぜんぶぜんぶ。
そして、幼い頃うたが好きで作詞作曲していた経験は
今こんな最高のカタチとなりました。
↓↓↓
大事なことはわくわくに正直でいること。
挑戦すること。
そして、人を大切にすること。
なによりも “ 出会い” が自分を成長させてくれた。